(※このページは2021年4月11日に更新されました)
「畳はどのようにして広まったの?」
この記事はそんな疑問のある方へ向けて書いています。
こんにちは、会津の感謝畳 秀の実です。
記事をご覧いただきありがとうございます。
もともと畳屋に生まれ育った私は、子供の頃からい草の香りを身近に感じながら生活していました。
そんな私が、まもなく社会人になるという時期には、両親や畳職人から
「住宅の洋風化から和室(畳の部屋)がだいぶ減ってきたよ」
「これからはフローリングの部屋が増えるから、畳屋は大変だよ」
というような話を多く聞くようになっていました。
私の畳店は、個人で営んでいたため、主に一般家庭の住宅用畳の「新床畳・畳表替え・畳表裏返し」
の業務を請け負っていましたが、やはり建築ラッシュ時代の先代(父)のころとは違い、畳需要の減少は顕著に表れていました。
そんな中、私は「畳の歴史と畳文化とはどういうものなのか」と興味が湧いてきたので、本やネットで調べてみました。
目次
古事記に記された「菅畳・皮畳・絁畳」
以前の記事にも記載しましたが、畳の歴史は古く、古事記にまでさかのぼります。
東国遠征を進めるヤマトタケルの一行が、現在の神奈川横須賀辺りとされる走水の海に差し掛かったとき、荒ぶる神の妨害にあって海は大荒れとなりました。
ヤマトタケルの一行は大波に翻弄され、進退が取れなくなりました。
このとき夫に従って乗船していたオトタチバナノヒメは、「私が、御子の身代わりとなって海に入ります。御子は任務を成し遂げ、天皇にご報告ください」と申し出るとその身を荒れ狂う海の中に捧げたのです。
と記されていました。
菅畳とは、現在のコモ、むしろのようなもので、皮畳は動物の皮の敷物、絁畳は絹の敷物です。
通常は、コモやむしろであっても、そこに「敬いなどの精神性」を兼ねることにより「菅畳」となりました。
御床畳(ゴショウノタタミ)
現存する最も古い畳は、奈良東大寺の正倉院にある聖武天皇が使用した「御床畳」(ゴショウノタタミ)です。
檜製の木組みの台を二脚並べ、その上に真菰(マコモ)を編んだ筵(むしろ)のようなものを5~6枚重ね、さらにその上に黒地錦縁の薄畳を二枚並び敷いてベットとしていました。
畳は権力の象徴
平安時代の貴族社会においては、そこに座る人の身分や地位を表すために、厳密な用い方が定められていました。
身分の高い人ほど座る畳も広く、厚さも厚く、そのうえ畳を重ねるなどしていました。
また、畳の縁の色や文様を変えるなどして座る人の地位や身分を規制していました。
貴族や武士の富の象徴
鎌倉時代から室町時代にかけて、書院造が完成され部屋全体に畳が敷き詰められるようになりました。
それまでは高貴な人や客人のもてなしのためのものでしたが、建物の床材として利用されるようになったのです。
しかし、そうした使い方も貴族や武士の富の象徴にありました。
また、小さな部屋では敷き詰めでありましたが、広い部屋では周囲に畳を追回しに敷いて、中央は板敷を残していました。
茶室の発達
桃山時代から江戸時代へと移るにしたがい、書院造は茶室の発達によって本格的な書院造の格式張ったものでなく、茶室の手法を取り入れた数奇屋風書院造となりました。
茶室建築から畳はやがて町家に引き継がれていき、畳が一般庶民のものとなったのは、江戸時代中期以降のことであり、農村においてはさらに遅く、明治時代になってからでした。
茶室の畳についた名前
茶室は、四畳半茶室を基本として、四畳半以上の茶室を広間、四畳半以下のものを小間といいます。
茶室は、炉の位置によって畳の敷き方が決まっており、その畳には敷かれる位置によって「床畳」「貴人畳」「客畳」「踏込畳」「手前畳」「炉畳」など皆それぞれに名前が付けられています。
畳は単なる建築床材としてではなく、「敬い、感謝、もてなし、礼儀」の精神性が強く込め られた敷物です。 日本固有の文化である畳は、敷物である以上に精神性を象徴した文化でありました。
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